気まぐれ日記 2011年2月
2011年1月はここ
2月1日(火)「社内表彰は受けたものの・・・の風さん」
電車で出社するには早起きが必要だった。それで、昨夜は早寝したのに、目覚ましの音にも気付かず、むしろ普段より寝坊してしまった。あわてて起きて、ミッシェルで高速をぶっ飛ばした。
159000kmを超えているミッシェルは、かなりガタがきている。日本の道路の舗装はよくないので、相乗効果で走行安定性も乗り心地も悪い。しかし、ある速度以上で高速の追い越し車線を突っ走ると、信じられないくらい爽快な走りになる。機械的な安定域がそのへんにあるのかもしれない。あるいは、飛んでいるのかも。
夕方から本社へ出張した。本来の表彰を受けていないので、フライングではあるが、社内表彰を受けるためである。
経営環境の悪化により、社外からの受賞件数が半減していて、私の受賞までかき集められたわけである。何とか数合わせできた社外受賞者を前にして、出席してくれた多くの役員が、ひたすら感謝の言葉を述べていたのには、少し失望した。こういうときだからこそ、「社外から評価された技術を、何とか会社の発展に生かして行こう!」と前向きで元気の出る発言をしてほしかった。
2月2日(水)「時間の感覚・・・の風さん」
毎年1月は長く感じられる。それはちょうど人生と似ていて、1年を人生とすれば、最初の1ヶ月は中学生になったぐらいの時間である。長い人生の中で中学生のときなど、それから先のことなど想像もつかなかったものだ。
1年間はそれなりに長い時間である。何かひと仕事やろうとするのに、1年間は手ごろな時間である。
1年の計は元旦にあり、とも言うように、年初に計画して年末までにやりきろうとすることも多い。
だから、1年計画の中の最初の1ヶ月は、まだ先が遠くて長く感じられるのだろう。
とはいえ、2月に入った。2月は28日しかない。この2月が案外早く過ぎて、3月からは、また怒涛の速度で経過していくのである。
2月3日(木)「大学生の世界に触れた1日・・・の風さん」
春の近さを感じるような陽気の日だった。
今日は県内の某大学へ出張した。
ちょうど入試のシーズンだが、その狭間の訪問である。
午前中にお目にかかった先生からは、大学における昨今の教育問題について教えていただいた。
昔の大学のように専門教育だけやっていればいいわけではない、という話である。
つまり、中高までの教育の不足を補い、さらには社会人になるための予備知識まで与える必要があるのだそうだ。前者についていえば、私見だが、核家族化されて子供らに対する躾をする人が減少しているため、どうしても子供らは常識が身についていない(たとえば挨拶がまともにできないなど)。後者についていえば、ゆとり教育の弊害で教える時間が少なく、暗記中心の詰め込み教育になってしまい、子供らに考える力がついていない。
先生は先生で、必死にそれらを補うべく奔走されていた。
私も自分にできることで何とか先生のお役に立ちたいと思った。
午後お目にかかった先生からは、最近の女子学生の振幅の大きさを教えられた。大きく揺れ動くということは迷っているということなのだろう。知人のお嬢さんも同様に激しく進路が揺れ動いている。戦争のない時代でも、生きるのが難しい世の中なのだろう。いやむしろ平和だからこそ、何を目指して生きていくべきか分からなくなってしまうのだ。
生命の維持に懸命になっている間はむしろ楽なのだ。ほとんどの欲求が満たされてしまうと、あとは自己実現、生きがいの問題なのだから。
2月4日(金)「100円と300円の差・・・の風さん」
早くも週末である。必死にやっているので、けっこう疲労もたまっている。それでも頑張らねばならない。
そう思って出社したのだが、会社へ来てもらっている大学の先生の講義をちょっと受けてみたら、面白くてはまってしまった。結局、会社の仕事は夕方からやるはめになってしまい、最後までできなかったので、また持ち越しになってしまった。
帰りに100円ショップで買い物をした。
座布団を二つ買った。100円のものと300円のものである。
100円の方は会社で使い、300円の方は自宅で使う。
どちらに力を入れているか、価格差で明らかであろう(笑)。
実際の使用時間を比較してみれば、300円の座布団の方により長時間座ることになるのだ。
帰宅したらまた楠木誠一郎さんの新刊が届いていた。
驚くべきは、また新シリーズであり、おまけに日本の歴史小説ではなく、何やら怪しい西洋の歴史小説なのである。
『龍の十字架ーブラン城の秘密ー』(講談社ノベルス)
すさまじい筆力である。
2月5日(土)「第4校ゲラの修正に全力投入・・・の風さん」
児童文学の第4校ゲラの修正に取り組んだ。第3校で力を入れた第7章をあらためて通しで確認すると、ちゃんとした小説になっている(笑)。やっと第6章までと同じレベルに到達したのだ。
出版社から電話があり、こまごまとした確認をしたが、編集長も第7章の出来が良くなったことを指摘してくれた。
これまでの小説出版では、本文の内容に全力が投入された。しかし今回の児童文学は、本文以外に、表紙カバーをはじめとする挿画の数々、そして、コラムや図版も豊富にあって、多彩な力が投入される。初めての経験で、常に幸福感にひたっていられる。
会社で経験しているモノづくりは量産であり、本の出版は一品物に近い。そして、芸術作品なのだ。
冷たい雨が降る中、午後、用事で図書館へ行って来た。一瞬、違った世界の空気を吸ってきたわけで、このメリハリがたまらない。
ゲラの修正は深夜までかかり、午前1時に、ミッシェルで郵便局まで投函しに行って来た。帰りにコンビニで赤ワインを買い、帰宅してからご苦労さんの一杯を飲んだ。
出版社へは、送った校正済ゲラをスキャナーで読み込んだpdfデータも送ってある。
2月6日(日)「雑用だけだよ・・・の風さん」
たっぷり寝て起きた……ために、1日の残り時間が少ない(笑)。
さまざまな仕事が遅れに遅れはじめている。会社の仕事まで遅れているので厄介だが、仕方ない。
気になってしようがなかった雑用から手をつけた。
年賀状の住所変更チェック作業からだ。
送った年賀状と届いた年賀状のチェックは正月休み中に終えている。住所変更の有無確認が大事だ。これは1年を通して心がけていることだが、年賀状で住所が変わったことを伝えてくる人は多い。
その作業をやりながら、あらためて思ったのは、今年の喪中ハガキの多さである。年末に不幸があった場合は、喪中ハガキが間に合わず、寒中見舞いとなる。
合計してみたら、14通だった。
この作業がかなりの時間を要し、夕方までかかってしまった。
夜は開き直って、確定申告の準備の一環で、昨年の領収書、レシート類の整理をした。
とうとう今日は、雑用の片付けで終わってしまった。
2月7日(月)「100km走った後は・・・の風さん」
今日は移動の多い日だ。T製作所へ出社して会議に出、終わると旧職場へ移動してこまごました用事を済ませ、昼食後、新職場へ移動した。ここまでで68km走っていた。今夜まっすぐ帰宅すると、1日の走行距離は100kmになる。
電気自動車では、電池容量的に危ない。翌日も同じことをしようとすると、満充電が必要で、プラグインによる注ぎ足しではもたない。
明日からの行動計画のために、早めに帰宅したかったが、仕事で遅くなったため、帰宅して夕食を摂ったあと、すぐ仮眠のためベッドに入った。
2月8日(火)「佐々木さんから得た教訓・・・の風さん」
午前1時半に目覚めて、ベッドから抜け出した。
出張の準備の続きをやって、それから明後日の準備を始めた。明後日は有休で、複数の出版社と打ち合わせをするので、その準備である。
出版社の中で、今回、ある程度の企画を提示しなければならない相手があった。創造的な仕事は疲れていると良いアイデアが浮かばない。そういう年齢になっているのだろう。とりかかってみたら、うまい具合にアイデアが出てきて、全体がうまくつながってきた。程度はともかく、提案に値する内容になってきた。
書き上げたメモをプリントアウトしたところで、時間切れとなった。
今日の出張のためには、最寄の駅を6時20分に出る電車に乗らなければならなかった。
朝食を摂っている余裕はなかった。
暗い道をとぼとぼと駅へ向かった。
昨年来何度も降りている「みなとみらい」駅に着いたのは、午前9時10分だった。
今日の最大の目的は、東レ経営研究所の特別顧問、佐々木常夫さんの講演を聴講し、終わった後で面会することだった。
佐々木常夫さんは出す本出す本がベストセラーになっている。昨年秋に出された『働く君に贈る25の言葉』も30万部になっている。
『ビッグツリー』で佐々木さんが秋高の先輩であることを知り、以前にもお目にかかる機会を作ろうとしたことがあったが、佐々木さんがあまりにも多忙で果たせなかった。
今回は、昨年の暮れにメールで面会を申し込んでいて、短時間ながらお会いできそうだった。
秋高卒の会社の同僚も誘って、今日の講演に臨んだ。
講演は本の内容を肉声で語っていて、意外なほど自分の生き方に厳しい方だなと感じた。こうすれば良い、ということは分かっていても、なかなかできないのが凡人の悲しいところだ。それができる人はすばらしい。そして、やれば確かに成果が上がることを身をもって示してくれるわけで、励みにはなる。しかし、やはり最後は実行力の問題である。
事前に戦略的な計画を立てること。どんな仕事も7割は雑用になってしまうから、その分の時間配分をしっかり入れておく。等々、もう一度肝に銘じて、自分の今後に生かそうと思った。
講演後にお会いした佐々木さんは、後輩に対して常に柔和な表情を見せてくれた。
主催者の中にもいた秋高のOBも入って、ミニ同窓会気分だったが、オーラをしっかり吸収することができたと思う。ちゃっかりデジカメで一緒に写真も撮らせてもらった。
2月9日(水)「1日に4社と打ち合わせ・・・の風さん」
さすがに昨夜は疲れていたので、以前入ったことのあるタイ料理の店で夕食を摂った後、ホテルに戻ってさっさと寝てしまった。
途中で目覚めなかったわけではないが、疲労をとることを優先して、今朝は5時に起床した。
今日は東京で行動するのだが、午前中は雨になってしまった。東京雨男は、こういったことが多い。
いったん昨日の出張先へおもむいて、会社の上司を紹介して歩いた後、東京へ向かった。
当初、午前中は某寺を取材する予定だったが、雨になってしまったので中止して、先月も訪問したS社へ向かった。S社では私の執筆は進んでいなかったので、前回できなかったS社の施設の見学をさせていただいた。今年1年はS社とのお付き合いが続くはずなので、この施設は利用させていただくことになるだろう。
続いて神保町の古本屋へ向かった。約1時間物色して、参考資料を3冊購入した。
美味しいラーメンで昼食を摂った後(当初の取材へ行っていたら、古本屋はおろか昼食もなかった)、I社へ向かった。午前中の雨は完全に上がっている。
I社では昨日未明に作った企画書を提出した。
読んでもらったら、予想以上の好反応で、「面白い。読んでみたい」と言ってもらえた。うれしかったので、もう少ししっかり書いたものを後日提出して、それをもとに出版企画として上げてもらうことになった。
次はC社で、わざわざ近くの喫茶店を指定し、待っていてくれた。久しぶりに会うので、当初の企画の見直しから相談を始めた。なかなか「これは」というアイデアが浮かばず、当初企画の路線とその変形版を考えて、再度私から提案することになった。何とか面白いアイデアを提示したい。
もうすっかり暗くなってきたが、まだ1社残っている。
東京駅丸の内口、オアゾにある丸善で待ち合わせた。ここはもともと別の予定をしていた場所である。
実は、佐々木常夫さんが、今夜ここでトークショーをされるのである。昨日の面会が超短時間で消化不良だった場合は、このトークショーの前にでもお会いしたいと思っていたのだ。
しかし、昨日の面会で十分収穫があったので、佐々木さんが来られる丸善で、出版社との打ち合わせをすることにした。
この出版社というより編集者との打ち合わせは、相談という方があっている。商業出版されにくい原稿を、何とか出版してもらうためのアドバイスをもらいたかったのである。
編集者は私の説明を親身になって聞いてくれ、あとで返事がもらえることになった。
2月10日(木)「前向き前向き・・・の風さん」
今朝は本社へ直行した。午前中、二つの用事を済ませ、昼食後、新職場へ移動した。
ハードスケジュールをこなしているので、体の奥に疲労がたまっている感じがする。
昼食を元部下と一緒に会社の食堂で摂ったのだが、私の体のことを真剣に心配してくれ、そのまごころに何とか応えなければ、と思った。
そして、どんなに厳しい現実であろうとも、やはり明るく前向きに行動しなければならない。
午後になって、予定外の仕事が入ってきた。長年会社生活をしているので、こういったことはしごく当たり前のことなのだが、それでもイライラしてしまうことは多い。しかし、佐々木常夫さんの本を読んで、講演も拝聴した後は、けっして慌てない。必ずこのピンチ、超多忙状態を克服してみせる、という決意が身内にみなぎってくる。
やや遅く帰宅したら、また楠木誠一郎さんの新刊が届いていた。今回は新刊が届くペースの速さだけでなく、以前3冊シリーズで出た作品の姉妹編というか第4冊目のような作品だったので驚いた。つまり、前のシリーズが好評だったに違いない。私が挑戦しようとしている新作と似た部分があり、緊張感が高まった。
昨夜相談した編集者から、早くもメールが届いていた。ビジネスを超えて対応してくださったことに感謝の気持ちでいっぱいとなった。
結果は、前途はあまり明るくなかったが、別のルートがありそうなことを示唆されており、もう少し調べていただけないか、お願いの返信を送った。
2月11日(金)「急なドカ雪で出社中止・・・の風さん」
今日は出社したらすぐやる仕事があったので、早起きして、さあ行くぞ、と着替えようとしたら、ワイフから「雪が降っているわよ」とビックリ指摘。
昨日から寒波が接近していることは知っていたが、降雪があるとしても午後からかな、とぼんやり考えていた。
私は愛知県知多半島の比較的南部伊勢湾側に住んでいる。当地の気候は、どちらかというと三重県や、場合によっては大阪と似ている。今回がまさにそれだった。雪が降り出すのが早いのである。
これまでの経験から、本格的な雪になった場合は、クルマでも電車でも目的地に到着するのは大変な苦労となる。骨折り損のくたびれもうけがオチである。
それで、即、出社は中止となった。仕事の約束をしていた上司には申し訳ないことをしたが、自然の猛威には対抗できないのである。
たまっていた雑用を片付けながら、常に外をチェックしていたが、夕方近くまで降雪はやまなかった。
そのような中、明日の父の七回忌のため、兄夫婦がクルマで福島からやってきた。幸い通行止めもなく、道路は空いていたという。
夕食前にくもん出版から連絡があり、図版のチェックをしてほしいとpdfでデータが送られてきた。会社で残業でもしていたら対応が遅れるところだったが、機敏に着手できた。しかし、けっこうな量の指摘事項があり、バックデータ含めて、返信し終わるまでかなりの時間を要した。
2月12日(土)「無事に七回忌が終了・・・の風さん」
昨夜は早めに就寝し、今朝は早起きして、連載原稿の準備に着手した。先週やる予定だったものだが、この週末で何とかしたい。
それにしても、昨日の降雪が嘘のように晴天である。
兄夫婦と義父が到着して、用意ができた。
私は実は朝食抜きだった。連載原稿の準備をしっかりやるためではない。礼服がきついので、少しでも体の膨張を抑えていたのだ(笑)。
お寺の本堂での読経は実に寒かった。夏でも涼しいお寺なので、冬の寒さは、石油ストーブをつけていてもかなりきついのだ。しかし、今は隠居しておられる先代住職が、最高位の紫の袈裟で読経してもらえたのはとてもぜいたくなことだった。
休憩歓談後、墓地へ移動し、新しい卒塔婆を立てて、全員がお参りした。
南向きの斜面に展開している墓地なので、日当たりはいいし、遠く三河湾も見えて、なかなか良い所だ。私もここへ葬ってもらおう。
いったん帰宅して着替えた後、会食場の寿司屋へ向かった。
緊張した行事が終わってホッとしたので、私も安心してたらふく飲んで食べたが、老いた肉体に大量の飲食物はこたえる。最後のデザートはとても食べられなかったし、すっかり食べ疲れ状態だった。
次は十三回忌になり、六年後である。六年はあっという間だろうが、それまでに何が起きているか分からない。私自身もお陀仏になっていて、三回忌を営んでもらっているかもしれない。
ま、とにかく、死ぬまで全力で突っ走っていくしかないような気がする。それが一番幸福なのだ。
2月13日(日)「やっと七回忌が終わったのに・・・の風さん」
七回忌という大きなイベントが終わり、ホッとして、朝から気合を入れていたときに、家の電話が鳴った。
母の近所に住む民生委員の人からで、母が急性の心筋梗塞で救急車で運ばれたという。今のところ命に別状はないらしいが、家族に連絡がとれなくて困っているとのことだった。
兄夫婦は今朝当地を出発したばかりだったので、事情を説明して、以後、私が連絡係になることを伝えた。
福島県まで帰るには相当な時間を要する。いくらケータイ電話の時代とはいえ、ハンドルを握っている兄と連絡の取り合いを頻繁にしてはいけない。
救急車を呼んだのは母自身で、病院へ運ばれたものの、処置を拒絶する態度をとって病院側を困らせているらしい。点滴の針も自分で抜いてしまったとのこと。それだけ元気なのかもしれないが、自分で自分の病状を理解していないことも十分考えられるため、とにかく兄が現地に着いて状況を正確に把握する必要があった。
午後になって民生委員の方が医者とも話ができ、その様子を伝えてくれた。病状はかなり悪そうだが、母の態度も同じくらい悪いらしい。
夕方病院に着いた兄は、看護師から状況説明を受け、それを私へ教えてくれた。それによると、病状は確かに悪いのだが、興奮させなければすぐにどうこうというなさそうだった。
父の命日である17日が近づいているので、私はなんとなく不安だった。
2月14日(月)「母の元へ駆けつけた風さんの巻」
今週もやることが山のようにある。メモ帳にそれらのリストをぎっしり書き込んで1週間が始まった。
朝、医者と会った兄から電話が入った。
それによると、母の病状はかなり悪いらしい。しかし、なぜか、自分で救急車を呼んで病院に入ったはずなのに、おとなしく治療を受けず、病院をてこずらせている。面会に行った兄まで追い返すほどだった。
非常に判断に苦しむ状況だと私は思っていたが、周囲がじっとしている私の態度を許さなかった。問答無用ですぐ会いに行くべきだ、というのである。それは、親の死に目に会えなかったら一生後悔するぞ、という警告だった。
それで、私もついに決断した。駆けつけて空振りすることよりも、駆けつけないで後悔するのはやはりよくない。
昼過ぎに帰宅したのだが、あまりにもやりかけていることが多過ぎて、どれだけ持って行ったらいいかが分からないのだ。
会社の仕事は問題ない。基本的にチームでやっているからだ。それでも持って行く物はある。
作家の仕事は基本的に私個人の責任部分が非常に多い。誰も代わりをやってはくれないのである。
「書斎ごと持っていければいいのにねえ」
ワイフが私の状況を理解してくれていたのでうれしかった。
民生委員からの連絡で、母は退院して自宅へ戻ったことが分かった。事実上、追い出されたのだ。
ふだん持ち歩いているキャリーバッグでなく、大型のものを使うことにした。
とりあえず5泊可能な分の着替えも用意した。
執筆関係は今週必要な資料をどんどんバッグへ放り込んだ。
今夜見直して送信する予定だった原稿は、超特急で仕上げて出発前に送信してしまった。
いよいよ出発となったら、外は激しい雪になっている。
(なんなんだ〜、これは?)
名古屋へ出たが、相変わらず雪が激しく振っていた。新幹線も5分程度の遅れが出ていた。
16時半発ののぞみで東京へ向かい、さらに東北新幹線に乗り継いだ。北上すればするほど、外は雪景色である。
父の命日が17日だけに、私の頭は次第に、父が母を迎えに来るのだと思い込むようになっていた。
郡山駅まで迎えに来てくれた兄の車で母の家へ向かった。
着いたのは午後9時過ぎである。
母は生きていた。しかし、スムーズに動いてくれない心臓を抱えた母は常に苦悶の表情を浮かべていた。
持参したいろいろな食べ物を並べたが、母の食欲はなかった。
暖めた鍋焼きうどんを数本すすっただけである。
それにしても家の中が乱雑で汚れていて臭い。普段の母の信じられないような生活ぶりがそれで分かった。
2匹の野良猫が出たり入ったりして同居しているのだが、猫が部屋を片付けてくれないのは当然だ。
最初は茶の間で母の添い寝をしていたが、やがて寝室でやすむことにした母の隣室で、ドアを開けたまま寝ることにした。
いつ緊急事態になってもいいように、私は心身ともにスタンバイ状態だった。
2月15日(火)「掃除大作戦のスタート・・・の風さん」
7時に起きて、母が起き出さないうちに、行動を起こした。
先ず、自分自身がシャワーを浴びて心身をさっぱりさせた。続いて、昨夜母の家に着く直前にコンビニで買ったパンで朝食にした。
そして、大掃除大作戦の初日である。今日は、母が一日のほとんどの時間を過ごしていると思われる茶の間が重点である。
動かなくなっていた掃除機を調整して動くようにできたのがよかった。
午前中に、市の福祉課の人が二人来てくれた。夕方、近所の医者が往診に来てくれた。それぞれ綿密な打ち合わせをした。
夜になって、薬が効いてきたせいか、母の表情が一気にやわらいだ。
しかし、極端に衰弱しているため、二階への階段を上がっていくのがひと苦労だった。
今日は、会社や自宅へも速報を伝えた。
1日中母の付き添いで疲れた私は、早めに就寝した。
2月16日(水)「こんなときに合格通知・・・の風さん」
今朝も7時に起床し、母が起きて来る前に掃除をした。
今日の重点は台所である。足の踏み場もないほど雑多な物であふれ返っていた。
ゴミと思われる物を捨て、掃除機で徹底的にきれいにした後、分別目的にゴミ袋をいくつか並べた。
キッチンマットが不潔に見えたので捨てて、新品を買ってきて敷いた。
今日も市の福祉課の人が来てくれて、介護サービスを受ける相談をした。
午後になって、母が出かけたいと言ったので、タクシーで駅まで行き、レンタカーを借りて機動力をつけた。
衰弱している母と一緒では、ほとんど目的は果たせなかった。
途中で久しぶりに出版社との電話できた。気になっていたことだが、今はやれることをやるしかない。
いったん帰宅して、今度は母を置いて一人で出かけた。母は薬が効いていて退院直後の緊迫した状態からは脱している。
やはりインターネット環境の整備が必要だと判断し、データ端末を購入した。
夜中に持参したモバイルPCのアプリルを使ってネットに接続できたころ、長男からメールがあった。
今年大学を卒業する長男は、4年前に受験して落ちた大学を受け直したのだが、その結果が出たと言う。
合格したのだ。
これは驚きだが、なかなかエキセントリックな人生を歩み始めたところが、私に似ていないこともない(笑)。
これからの生活は要相談ではあるが、できる限りの応援はするつもりだ。
明日は父の祥月命日である。
壁越しに聞こえてくる母の咳払いが、命の炎のゆらぎである。
2月17日(木)「掃除大作戦もかなり進捗・・・の風さん」
早寝しているせいか、ちゃんと7時に起きれる(笑)。
掃除大作戦3日目の今日は、父の部屋に設置してある猫のトイレ2台のの更新だ。砂をすっかり取り替えた。
これでかなりの臭気の源が片付いたはずだったが、そうではなかった。
業者に石油を持ってきてもらい、屋外タンクに給油した。
今日も市の福祉課の人が来て、介護サービスの人たちを連れてきてくれた。事前に契約内容について相談し、それから母に会ってもらった。
私がいない間のことを考えて色々と手を打っているのだが、老いた親の面倒をみるのが難しい世の中だとつくづく感じる。昔のように大家族で暮らしていれば、誰かが面倒をみるわけだし、そもそも昔はこんなに長生きできなかったので、ぼける前に死んでしまうのがほとんどだったのだ。肉体を死なせない医学が、脳の老化を防ぐ医学以上に先行して発達してしまったということなのだろうか。
午後からレンタカーで出かけ、母の代わりに用事(年金をおろすことなど)を済ませてきた。
途中で会社へも電話し、こちらの状況を説明して、職場に迷惑をかけていることを詫びた。
毎日たいしたことをしているわけでもないのに、激しく疲労を感じる。
2月18日(金)「会社の仕事を一つできてホッとした風さんの巻」
朝から冷え込んでいた。空はどんよりとして、いつ雪が舞ってきてもおかしくない空模様だった。
掃除大作戦は、ゴミの整理から環境整備段階へと進めた。新たに出てくるゴミが分別されて捨てられるようにすることや、より清潔な環境になった部分から順番に芳香剤や消臭剤を設置していくのである。この段階まで進むと、自分が着ている毛糸のセーターなどに、埃だけでなく臭気がしっかり付着していることに気付いて愕然としたりする。
切れていた玄関灯や門柱の灯りなども交換して、夜間、人が住んでいる家らしくなってきた。しかし、こんな灯りをこまめにつけたり消したりするのは私ぐらいかもしれないのだが……。
今日は予定していた来客が明日に延期になったので、会社の仕事の中のひとつ、一橋大学作成のドラフトのチェックをかなりの時間をかけて実施した。何とか終了させることができて、ホッとした。
大学といえば、比較的近い位置に日大工学部がある。4月からそこの客員研究員にさせてもらうので、時間を見つけて挨拶に行けたら行こうと思っていた。先生とメールで何度か連絡をとりあっていたが、やはり難しそうだ。
夜、やっぱり雪が降ってきた。
2月19日(土)「驚くべき母の回復・・・の風さん」
昨日と違って、朝から快晴である。しかし、頭痛がする。兄からもらった血圧の薬だけでなく、頭痛薬も飲んでみた。連日連夜戦場にいる気分だ。疲れているに違いない。
朝のお勤めを終えて執筆のための資料読みを始めた。
今日はお昼に医者や介護センターの人が来る。いよいよ私の仕事の大詰めである。
……と、窓から下の道路を見たら、タクシーが止まっている。
(まさか?)
元気が出てきた母が呼んだタクシーではないかと思った。出かけられては困る。
急いで階下へ降りて腰が抜けるほど驚いた。
母は帰宅したところだったのだ。
遠くのスーパーまでタクシーで往復した母は、大量の買い物をして帰ってきた。
予定通り医者の往診があったが、医者も驚くほどの回復ぶりだった。
訪問介護も明日から毎日実施されることが決まった。
私はようやく安心して資料読みを続けることができた。
ただ困ったのは、母が買ってきた大量の食べ物で、8個のケーキには愕然とした。
2月20日(日)「児童文学の最終チェック・・・の風さん」
今日は帰る日だが、次女が日帰りで母の見舞いに来た。
次女の駅への到着時刻が訪問介護の人が来る時刻と重なってしまったため、駅へは兄に迎えに行ってもらった。母を見張ってないと、いつどこへ出かけてしまうか分からない。
次女が来て母は喜んでいたが、最も外観の変わる年頃の次女を見て、本当に自分の孫娘だと認識できたかどうかは分からない。
約3時間の滞在で、次女は私と帰ることになった。「また来るから」と連呼しなければ、容易にその場を離れることはできなかったろう。
レンタカーで駅へ向かった。
そのまま東海道新幹線に乗り継ぐ次女とは、東京駅で別れた。
日曜日の夕方の東京駅はおびただしい人、人、人だった。
私はくもん出版と待ち合わせ、ゲラの最終チェックをした。約2時間で数箇所の変更を決めた。これで、明日は責了となる。とうとう私の手から完全に離れるのである。私は編集長に深々と頭を下げた。
今日は朝からケーキ3個と肉まん1個しか食べていなかった。
駅弁を買って、のぞみに乗り込んだ。
ひと仕事終えた後の駅弁は格別だった。
食後、名古屋まで爆睡してしまった。
2月21日(月)「ミッシェルが不調・・・の風さん」
実に長い1週間が明けて、半ば強制的に日常の生活に戻らされた。
ミッシェルに乗り込んでキーを回すと……、セルが回るのにエンジンがかからない!
何度やっても駄目だった。点火しないのである。外へ出るとかすかにガソリンの匂いがする。燃料は噴射されているようだ。
ワイフの車を借りることにした。今日からワイフは、長女と一緒に母のところへ出かけるので、車は使わない。だからミッシェルのエンジンがかからなくてもいいというわけではない。
朝から想定外のトラブルになった。それにしても16万キロも走っていると、こういうことが起きても仕方ないのだろうか。
T製作所へ出張し、普通ならそこから旧職場に寄って、新職場へ出社するのだが、今日は流れを変えて、出張先からまっすぐ新職場へ向かった。途中で昼食用のおにぎりをコンビニで買った。
1週間の休み明けで、簡単に仕事に戻れない。とりあえず急ぎのものに集中した。
実家へ帰る前に注文してあった個人名刺を受け取った。来月出版される『星空に魅せられた男 間重富』(くもん出版)が追記されている新バージョンの名刺である。
帰宅してもう一度ミッシェルのエンジン始動に挑んだが、今朝と症状は全く同じだった。そこから修理依頼の電話をした。
実家の様子を電話で聞くと、予想以上にハッピーな状態からスタートしたが、就寝前に、それは崩壊していた。ワイフと長女の試練が始まった。
2月22日(火)「大野先生のご講演を聴講・・・の風さん」
実家では朝からトラブルが始まっていた。死の淵から這い上がった母は、元気になるとわがままと認知症の連続攻撃を仕掛けてくる。
今日は、日本経営工学会中部支部の研究発表講演会で、大野先生がご講演をされるので、その聴講のために出張した。
名工大を定年退官されて愛工大へ移られた大野先生は、愛工大も定年退官されることになった。だから、この講演は最終講演になるかもしれないのだ。噂を聞きつけて聴講に駆けつけた方が私以外にもたくさんいて、閑散とした会場は一気に埋まった。
懇親会にはおなじみの顔ぶれが多く、しっかり交流できた。有益な情報をたくさん得ることができたし、自己PRもできた。
帰宅したら、車庫の中のミッシェルが日産キューブ(代車)になっていた。
相変わらず実家は戦場らしい。
2月23日(水)「ミッシェルが復活・・・の風さん」
先週1週間というか、降雪による突発有休含めると、実に10日連続出社していなかった。
その影響は大きく、予定していた仕事がどんどん遅れている(当然、作家業も連動して遅れている)。
とはいえ、疲労もたまっているし、ミッシェルのトラブルは起きるし、家では独身状態だし、挽回するには条件が悪すぎる。
ボケた頭をフル回転させるのはなかなか難しいが、今日は珍しくヒットが出た。
昨日ドック入りしたミッシェルが、もしかすると今日にも直るかもしれないと思い、代車でしかも給油せず出社したら、午後ケータイに連絡が入り、「不具合が再現せず、今では調子よくエンジンが始動する」という。
点火系を中心とする電気系統の不具合だと今でも思っているが、再現しないのなら、どうしようもない。ただ、プラグを交換してから8万キロ走行しているとのことだったので、とりあえずプラグ交換だけ頼んで、退社時にミッシェルを引き取ることにした。
ミッシェルは復活したらしいが、私自身はエンジン全開とはいかない。
そろそろと仕事をして、中古車屋でミッシェルを受け取った。
プラグを交換したせいもあるだろうが、やけによく走る。加速感が心地よい。
帰宅したら、家内も既に帰っていて、実家の情報交換をした。
2月24日(木)「執筆再開できず・・・の風さん」
出社し、先週の欠勤を有休でなく、介護休暇という特別休暇で処理してもらうことにした。一種の公休である。しかし、年間付与日数をすべて使ってしまったので、次回からは事故欠勤となる。
旧部署での仕事もあるのだが、昨日に続いて新部署で仕事した。
しかし、実家のトラブル対応のため、何度も何度も外へ出て関係者と電話連絡をとり、落ち着かない一日だった。
定時になって早々に帰宅し、先ず体を休めてから、遅れていた執筆を再開しようとしていたら、一人で実家に残っている長女からトラブル報告の電話があり、1時間半も話してしまった。
これは家族間の通話なので無料だが、今月の電話代は過去最大になるだろう。
しかし、そんなことより、長女は、やっと取れた正月休みの5連休を、すべて祖母の付き添いのために使ってしまうことになる。親として誇らしい気持ちでいっぱいだが、同時に申し訳なく思う。後日何かで埋め合わせしてあげなければ。
ということで、今夜も全く執筆再開できず。
2月25日(金)「会社の仕事も挽回できず・・・の風さん」
新職場へのミッシェルでの出勤がようやく慣れてきた。日にち的にはもうずいぶんになるが、出張や休みが多くて、実質的な日数は少なかったのだ。片道何分かかるかハッキリしてくると、家を出る時刻のタイムリミットもハッキリしてくる。
昨夜の長女との電話内容を兄貴へ連絡して相談することから1日が始まった。
今日は週末だが、先週1週間分の遅れを取り戻すことは無理だった。しかし、歩みを止めるとさらに遅れが増えるので、のろくても前進するしかない。
会社の仕事だけでなくプライベートも同様である。
ぐずぐずせずに定時にさっと切り上げて帰宅した。
帰りに買い物をしようと思ったのだが、狙ったショップが二つともしまっていて、目的を果たせなかった。
夜は夜でやはり雑用がたんとあり、とにかく前進はさせたが、なかなか挽回とまではいかない。
ここ2週間近く新聞もろくに読んでいない。
時計は止まったままのようだが、実は、止まっているのは私の時計だけで、世の中は確実に進んでいる。
2月26日(土)「執筆環境は厳しい・・・の風さん」
朝から久しぶりに頭痛がする。よく考えてみると、また仕事がべらぼうにたまっている。昨年12月に襲われたのと同じ、老化した肉体にストレスで生じた反応に違いない。天気が好いのに気持ちがこれでは情けない。
眼精疲労対策の薬をはじめ、あれこれとりまぜて頭痛薬も飲んでみた。
とにかく執筆だ。
しかし、調べて書く原稿の場合、相当に調べないと書き出せない。以前調べた内容であってもほとんど忘れているし、通り一遍のことを書くわけではなく、筆者の視点をどこに置くかがオリジナリティになるので、それがひらめくまで、ひたすら調べまくることになる。
幸い資料はどっさりある。「読み尽くした」なんてことには簡単にはならない。
長男は今日は京都までアパート探しに行っている。4月からまた大学生をやり直す。それも人生の選択肢の一つとして認めてやっているので、本人はやる気満々だろう。
しかし、問題は、金銭的な支援である。
無制限に支援することはしないし、もちろんできない。
結局、長女が社会人になったときの支援を、先にやってしまうという考え方で決めることにした。したがって、かなりの額のアルバイト収入と奨学金獲得が必要になり、本人は頑張らねばならない。
病気の母を診察してもらう専門病院の候補(かかりつけの医師と兄が推薦した)をインターネットで調べた。なかなか良い病院だった。一日も早くそこへ連れて行こうと思ったので、夜、兄へ電話した。
執筆は、下調べだけで終わってしまった。
2月27日(日)「視点探索のための資料読み・・・の風さん」
天気は下り坂だが、ふと庭の梅を見ると、もう五分咲きになっている。これで、メジロが二三羽でも来ると、まるで和菓子のサンプルを眺めるような気分になれる。春が近いのだ。
介護センターへ電話して、昨日の母の様子を確かめた。
玄関のチャイムで応答がなく、センターから電話を入れてもらって、ようやく母が出て、それでヘルパーさんは中へ入れてもらえたそうだ。
それまで約30分。
感謝しつつ、あまり無理しないようにお願いした。
その顛末は民生委員へも説明することになった。
今日もひたすら資料読みである。そうしているうちにだんだん筆者の視点が見えてきた。その視点であらためて資料を読むとまた違った世界が見えてくる。
2月28日(月)「執筆が始まるとまためちゃくちゃなライフスタイル・・・の風さん」
昨夜、晩御飯を食べた後仮眠して、疲れがとれたころ起き出して、また執筆に取り組んだ。
そのまま頑張るのはちょっときついと思って、午前5時過ぎにまた仮眠しようとしたが、寒くて眠れなかった。老化現象で寒さに弱くなった。
ぼやぼやしていたら遅刻しそうになったので、有料道路を突っ走って旧職場へ向かった。
ところが、インターチェンジを降りてから渋滞がひどくて、有料道路を走った効果がなくなりそうだった。
久しぶりに旧職場に顔を出したので、2週間遅れのチョコレートをもらった。想いを2週間暖めてあったのだろうが、中身は融けていなかった(笑)。
たまっている旧職場の仕事を超特急でやっつけ、昼飯を食べてすぐ新職場へミッシェルで移動した。途中でミッシェルの積算距離計が16万キロをこえた。めでたい。あと4万キロ、がんばるぞ。
午後は長い会議になって眠かったが、なるべく発言するように心がけて、気を失わないようにした。
しかし、会議が終わって立ち上がったら、目が回って倒れそうになった。
定時の合図と同時にダッシュで帰宅した。
だいぶ日が長くなってきたので、うれしい。
晩御飯をはさんで仮眠した。
2011年3月はここ
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